表参道入り口、一の橋から弘法大師御廟まで通じる約2㌔の参道両側には、何百年も経た老杉が高くそびえ、その老杉のもとには、少しでもお大師様の近くで供養されたいと願う数十万基を超える各時代の、あらゆる人々の供養塔が建ち並び、高野山が日本一の霊場である事をあらわしています。
この橋は、弘法大師御廟に向かう参道入口で最初に渡る橋なので、一の橋と言われます。正式には大渡橋(おおばし)と言われ、昔から、お大師様が人々を、ここまで送り迎えしてくれると言い伝えられ、今でも、この橋の前で合掌一礼してお参りします。
この橋は、一の橋と御廟橋(ごびょうばし)の中間にあるので、中の橋と言われます。正式には手水橋(ちょうずばし)と言われ、平安時代には、この場所で、身を清めていました。ここを流れる川は、昔から金の河と呼ばれ、金は死の隠語を表し、死の河、つまり三途の川を表しているそうで、この橋を渡ると、これから先は、死の世界に入ると言う意味になるようです。
中の橋を渡るとすぐの、この地蔵堂の中には、汗かき地蔵をお祀りしています。この汗かき地蔵は、世の中の人々の苦しみを、お地蔵様が身代わりになり一身に受けているので、いつも汗をかいていると伝えられています。
玉川の清流を背にして金仏の地藏菩薩や不動明王、観音菩薩が並んでいらっしゃいます。奥の院に参詣する人々は、御供所で水向塔婆を求めて、このお地蔵さんに納め、水を手向けてご先祖の冥福を祈ります。
御廟橋の下を流れる川は、奥の院裏山、霊峰楊柳山より流れ出る清水でございます。川の中に立てられている卒塔婆(そとうば)は、流水灌頂(ながれかんじょう)と言い、水難事故や難産で、この世を去った人々の霊を水で清め追善供養する為に建てられています。また、この川に住む小魚には昔、子供たちが魚を串に刺して焼いていた処、お大師様が通りかかり、私にもその魚をいただけませんかと、子供たちから分けてもらい、魚の串を抜いて自ら玉川に放したところ、焼かれた魚が、生き返って泳いだと言う伝説があり、今もその背中には、その時の串の跡と言われる斑点が見られます。
この橋を渡ると大師御廟への霊域に入ります。この橋を渡る人は、橋の前で服装を正し、礼拝し、清らかな気持ちで霊域に足をふみ入れます。この橋は、36枚の橋板と橋全体を1枚として37枚と数え、金剛界37尊を表していると言われ、橋板の裏には、仏様のシンボルの梵字が刻まれています。この橋の上で、あの苅萱道心(かるかやどうしん)と石童丸親子(いしどうまる)が初めてめぐり合ったとも伝えられています。この橋は従来、木の橋でしたが、現在は原型通りの石橋に架け替えられています。
燈籠堂は真然大徳(しんぜんだいとく)が初めて建立し、その後、藤原道長によって西暦1023年(治安3年)に現在に近い大きさの燈籠堂が建立されました。堂内正面には、千年近く燃え続けていると言われる二つの「消えずの火」があります。一つは、祈親上人(きしんしょうにん)が献じた祈親灯(きしんとう)。もう一つが、白河上皇が献じた白河灯(しらかわとう)です。この祈親灯の事を、祈親上人のすすめで貧しい生活の中、自らの髪を切り売ってまで工面したお金で、献灯したと伝わるお照(おてる)の話に因んで貧女の一灯(ひんにょのいっとう)と呼ぶ説もあります。それにあわせて白河灯の事を、長者の万灯と呼び、貧女の一灯、長者の万灯の伝説が残るお堂です。
この弘法大師御廟は、大師信仰の中心で聖陵です。転軸、楊柳、摩尼の三山の千年杉に周囲を囲まれ、奥深く厳かな、たたずまいを見せています。 お大師様は、西暦835年(承和2年)3月21日寅の刻、御年62歳で、予てからの予言通り御入定なさいました。玉川の清流に沿った台地に、ご入定前には、既に納涼坊、総修堂が建立されており、お大師様自ら廟所と決められていたとも伝えられています。御入定後、お弟子たちは、予定通りその場所に御廟を建立され、御入定後86年を経て、西暦921年(延喜21年)醍醐天皇より弘法大師の諡号(しごう)を賜りました。この御廟で祈れば、お大師様は必ず応えて下さると言われており、入定留身の聖地として今日なお廟前に祈りを捧げる参拝者は絶えません。
金剛峯寺は、元は真然大徳のお住まいがあったところで西暦1131年(天承元年)10月17日に覺鑁上人(かくばんしょうにん)が鳥羽上皇の許を得て大伝法院(だいでんぽういん)を建立され、その後、豊臣秀吉公が亡き母の菩提を弔うために木食応其上人(もくじきおうごしょうにん)に命じて建立させた寺院で、その名を青厳寺と呼び応其上人の住いとなりました。その後、再三の火災によって焼失しましたが、現在の本殿は西暦1863年(文久3年)に再建されました。西暦1869年(明治2年)3月に青厳寺と興山寺の2ヶ寺が統合され、さらに全国の真言宗寺院を総括する管長職が置かれました。現在は、奥の院祖廟を信仰の中心として結成された、高野山真言宗三千余寺、信徒約1千万人の総本山として、高野山真言宗管長兼金剛峯寺座主の住いとなっています。
(拝観料500円)
西暦1984年(昭和59年)弘法大師御入定1150年御遠忌大法会(ごおんきだいほうえ)の際、新別殿と同様に造られました。左手奥に勅使門(ちょくしもん)があり、その正面には奥殿があります。石庭としては我が国最大の庭です。雲海の中で、雄雌一対の龍が向かい合い、金胎不二(こんたいふに)の相を表し、本山奥殿を守護する龍の姿が表現されています。龍は大師ゆかりのご誕生地、四国の青い花崗岩140個を使い、雲海には京都の白川砂が使われています。
奥の院と共に伽藍は、高野山の二大聖地です。 お大師様は、この地を賜った後、七里結界の法を修し、現在の大塔の地を中心に伽藍地鎮の式を行われました。西暦819年(弘仁10年)5月3日、地主の神として、丹生、狩場両明神を勧請し、さらに壇上に大塔、金堂を初め諸堂、僧房の建立を計画されました。
この塔は、弘法大師、真然大德の二代で816年から70年の歳月をかけて完成したと伝えられています。弘法大師は、この大塔を真言密教の根本道場のシンボルとして建立されたので根本大塔(こんぽんだいとう)と言い、多宝塔としては、日本で最初のものでございます。本尊は、胎蔵大日如来(たいぞうだいにちにょらい)が安置され、周りを金剛界の四仏が取り囲み、16本の柱には堂本印象画伯の筆による十六大菩薩が描かれ、四隅の壁には密教を伝えた八祖像も描かれ立体曼荼羅(まんだら)を構成しています。この絵と外壁は、平成の大修理の一環として修復・塗り替えが行なわれ、北側に安置されている二体の仏は多聞天と持国天で、江戸時代の作とされ、もとは中門に安置されていたものです。高さ約48.5m、幅約23.5m四面で、現在の建物は、西暦1937年(昭和12年)に再建されたものです。
(拝観料200円)
高野山開創当時は講堂と呼ばれ、平安時代半ばから一山の総本堂として重要な役割を果たしてきました。現在の建物は七度目の再建で、西暦1932年(昭和7年)に完成しました。入母屋造(いりもやづく)りで本尊は高村光雲作の薬師如来。内部の壁画は木村武山画伯の筆。内陣の両側には、平清盛が自らの額を割った血で中尊を描かせた、通称「血曼荼羅」の模写が掲げられています。
拝観料(200円)
伝説の三鈷の松を前にして建つ宝形造りのこのお堂は、もと大師の持仏堂でした。後に真如親王が描かれた大師御影をお祀りしたことから、御影堂と名付けられました。堂内の外陣には十大弟子の肖像が大師の御影を守護するかの様に掲げられています。現在の建物は、西暦1843年(天保14年)炎上後、西暦1847年(弘化4年)に再建されたものです。
このお堂は、西暦1197年(建久8年)に鳥羽上皇の皇女八条女院の発願により、高野山一心院の開祖である行勝上人が一心院谷に創建されました。その後、西暦1910年(明治43年)国宝建造物修理の際、現在の地に移されました。現在の建物は、鎌倉時代の和様建築で、平安期住宅様式を仏堂建築に応用したもので、本尊は、不動明王、脇侍は運慶作の八大童子です。不動堂並びに八大童子は、国宝または重要文化財に指定されています。
この松は、弘法大師が唐より帰国される時、明州の浜より真言密教を広めるのにふさわしい場所を求めるため、日本へ向けて三鈷と呼ばれる法具を投げたところ、たちまち紫雲たなびき、雲に乗って日本に飛行したと言われ、後に大師が高野近辺を訪れたところ、狩人から夜な夜な光を放つ松があると聞き、早速その松へ行ってみると、唐より投げた三鈷が引っかかっていて、大師はこの地こそ密教を広めるにふさわしい土地であると、決心されたと言い伝えられています。この松は、三鈷と同じ三葉の松で、聖木として現在も祀られています。
18世紀後期には旱魃が、たびたび起こり瑞相院慈光師(ずいそういんじこう)が善女竜王像と仏舎利を寄進し、西暦1771年(明和8年)春に蓮池の中島に小さな祠を建立してお祀りしました。西暦1996年(平成8年)に祠とともに橋も修復されています。池の周りには四季折々の花木が植えられ、景勝地としても有名です。
この建物は、本山をはじめ山内寺院に伝わる国宝約4700点、重要文化財約14000点、県指定文化財約2800点等を保管、展示するために、西暦1921年(大正10年)に建立されました。建物の様式は、宇治の平等院を模した優美な姿をみせております。また、西暦1984年(昭和59年)の弘法大師御入定1150年御遠忌大法会の記念事業の一環として、霊宝館の横に、本館と共に拝観が出来る新収蔵庫も建立されています。
拝観料(600円)
この建物は、全国の高野山金剛講支部、大師教会支部、高野山宗教舞踊総司所と百万の会講員を統括する総本部で、高野山の宗教活動の中心的建物となっています。この大講堂は西暦1915年(大正4年)に開創1100年記念事業として建立されました。毎年全国詠歌大会、宗教舞踊大会は、この大講堂で開催されています。また、受戒堂においては、私たちが日々生きていく上での信条とも言うべき菩薩十善戒を真っ暗なお堂の中で受ける事が出来ます。
(授戒料500円)
大門は、11世紀末頃に高野山の総門として現在の場所に建てられましたが、お大師様のご開創当初には現在地より少し下がった九折谷(つづらおりだに)に鳥居が建てられていました。現在の建物は、西暦1705年(宝永2年)に再建されたもので、両脇の金剛力士、阿形像(あぎょうぞう)は、江戸時代の仏師、康意(こうい)、吽形像(うんぎょうぞう)は、法橋運長(ほうきょううんちょう)による大作です。この建物は、正面桁行21.4m、梁間7.9m、高さ25.1mで、重要文化財に指定されています。晴天の折には、遠く淡路島を望む事ができ、また、ここから眺める夕日は非常に綺麗なことから夕日百選にも選ばれています。
西暦1643年(寛永20年)三代将軍家光が建立した江戸時代の代表的な建築物です。建物の内部は漆、金箔、壁画等で装飾され一重宝形造りの同じ建物が左右に並び、右が東照宮家康霊屋。左が秀忠霊屋で、何れも高野聖(こうやひじり)たちによって建てられたと記録されています。
(拝観料200円)
昔、高野山への入口は、高野七口(こうやななくち)と言われるように七つの入口が有りました。その七つの入口には、西暦1872年(明治5年)女人禁制が解かれるまで、高野山に入れない女性の為に参籠所が設けられていました。現在は、この七口の一つ、不動坂口にあるこの女人堂だけが残っています。また、このお堂の近くには、高野山を代表する高野六木を中心とした、見事な自然林が保護されていて、高野山の自然の移り変わりを観察する事ができます。
この多宝塔は、源頼朝、実朝の御霊を供養するため、西暦1223年(貞応2年)頼朝の妻北条政子により建立されたものです。現在、高野山に現存する最古の多宝塔で、鎌倉様式を残す数少ない建物です。西暦1900年(明治33年)4月には、国宝に指定され、また、西暦2004年(平成16年)には、世界文化遺産にも指定されています。
苅萱道心(かるかやどうしん)と石童丸(いしどうまる)は、約四十年の長き間、この苅萱堂で修行されました。堂内には、親子地蔵尊を祀り、苅萱親子一代記の彫刻画を額に入れて掲げています。石童丸は父親を探すために母親と共に高野山の麓まで参りましたが、当時、高野山の掟であった女人禁制により、山に入れない母を学文路の宿に残して父を探し求め、一人高野山に登りました。しかし、石童丸の帰りを待ちきれずに、母親は病気を患い亡くなってしまいます。父の苅萱道心は、自分も修行中の身であるため、石童丸を自分の子供と知りながらも名乗りあわないまま、共に高野山で修行されたと伝わっています。この苅萱道心と石童丸の悲しい物語は、現在も、高野山にまつわる伝説として言い伝えられています。
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